私的妄想劇場(ver信忠誕生)

ぼんやりと歴史ものを眺めている時に、意外な事実に気付くことがあります。信長関係で一番衝撃的だったのは信忠が生まれた年と信行が死んだ年が一緒(1557年)だったことです。
ロイヤル好きとして普段からあの人とこの人がどういう親戚関係かを調べ、後継者についてシュミレーションするのが大好きな私にはたくさんある信長本その他がこの重大な事実にほとんど触れていないのが不思議でたまりません。信忠は信長が24歳の時にようやく生まれた最初の子どもです。信長は15歳で結婚しています。さすがに15歳というのは父親になるには若すぎでしょうが、生物学的には18ぐらいになると父親になってもおかしくないので、現在でも3年たったら不妊症なことを考えれば、5年以上たって初めての子どもってかなり遅いです。信長がなかなか子どもに恵まれない一方で弟の信行には順調に男の子が生まれています。
こういう状況では、周りは信長は一代限りでその後は家督は信行の家系に引き継がれるとぼんやり想像していたでしょう。ところが、信長の側室の妊娠が判明した瞬間に、家督は信長の子孫に引き継がれ、信行の子孫は分家として信長の子孫に仕える運命がほぼ確定したわけです。信行派閥には衝撃的なニュースだったでしょうね。
信行が殺されたのは11月ですが、信忠の誕生日はわかっていません。わかっているのは信長の舅の斎藤道三が死ぬと家中で信長打倒の動きが表面化し、信行が謀反を起こすも信長が勝利し、一度は許したものの、再び謀反を企てたために信長が信行を殺害したという流れです。斎藤道三の死から信行の死まで、ほぼ1年半という目まぐるしさです。並べると
1556年 4月 斎藤道三死亡
     8月 信行謀反、信長勝利
1557年11月 信長が信行を殺害
信忠が1〜3月生まれとすれば信行の謀反前に妊娠がわかっていたことになり、後半生まれとすれば挙兵後に妊娠がわかったことになります。(どちらにしても道三は信長に子どもができることを知らないままだったのですが)
信忠が1557年の初め生まれなら、信行の挙兵は、信長を殺さない限り、自分もしくは自分の子どもに家督が廻ってこない事態になって焦ったのも要因の一つと考えられます。後半生まれなら、信行が再び謀反を企んだきっかけとも考えられますし、信長が子どもの障害を取り除くために、一度許した信行を殺害したとも考えられます。信忠の誕生日が何とかしてわからないものでしょうか。信忠の存在だけが信長と信行の争いの原因とはいいませんが、全く影響を与えていないとは私には考えづらいのですが。
しかし信長ファンとしては、側室が多いから女性関係は派手っぽいし、子どもも信忠以降ポコポコ生まれているのにどうして24まで子どもができなかったのかというのが最大の謎。そういえば、信忠も26にしては三法師がずいぶん幼かったですね。ひょっとして後半に伸びるタイプですか?