カーネーション

あの矢絣はお召しでしょうか。でも絹着て仕事するわけないですし。周りも矢絣多いですね。やっぱりポピュラーな柄なのでしょうか。次は夏っぽくなっていましたね。日本髪だとどうしても嵩高くなりますね。女性は小柄な方が受けがよかったのも納得です。八恵子の姿がちょっとモダンで大正時代の写真にでてきそうではまっていますね。
昔の職人の世界ってあんなもの、実際に仕事するまで10年かかるとか当たり前だけど、職人が周りにいる環境で気づかないものでしょうか。今でも板前修行とか初めはずっと野菜の皮剥きとか言いますが。まあ最終的には2年位でミシンかけていましたね。やっぱり才能があるのでしょうね。でも縫いすぎたらダメですね。糸をほどいても穴があいたら商品の価値下がりますし。
心斎橋と岸和田のギャップがすごいですね。まあ確かに田舎在住の身内から聞く思い出話って、同じ時代の回顧録と全然違ったりしますからね。回顧録ってほとんど都市部の人が書いてますからね。岸和田を自動車が走っていたら事故りそうでヒヤヒやでした。ところでカフェの女給さんを見て思わずメイド喫茶という言葉が浮かんでしまいました。
小原呉服店はぼちぼちらしいですが、ご実家からお金を借りなくてもやっていけているということでしょうか?
相変わらずへたれな勘助ですが、何の仕事しているのでしょう?中学を出ているならそれなりの枠で就職していますよね。*1
余談です。神戸の松坂家がずっと小原家を援助していて、孫娘の心配していて、糸子のおじも(ある意味厄介な姉妹なのに)友好的で、挙げ句に娘と孫娘は引き取って育てる気まであるのを見て、案外当時の資産家の家族観ってこんなものだったかもと思いました。昔は「嫁しては夫に従え」とか「嫁にいったら他人」とか「二度と敷居をまたげない」とか建前のスローガンはあるけど、実態はかなり実家と繋がりありましたからね。それなりの「お家」なら結婚後も娘の生活費をある程度負担するのは常識的な感じもありましたし。*2松坂家のように事業をしていたら、勉強ができるけど経済的に進学できない男性と結婚させて、学費+生活費を負担、場合によっては親兄弟も援助、するかわり、卒業後は自分の会社に就職させ、転職は認めないという人材確保をしたりしていました。内孫に女の子がいなそうだし、何人か縁組みを考えて確保しておくのも手だと思います。だったら早い方がいいですよね。糸子はもうマナーとか考え方で良家の奥様はダメそうですし。

*1:当時は義務教育は小学校だけです。

*2:ケースバイケースです。