あくまで可能性

彰子が定子の息子の敦康を皇太子にするかどうかで道長ともめたエピソードについては賛否がありますが、敦康への感情とは関係なく天皇にすべきと思っていた可能性もあるんじゃないでしょうか。何といっても敦康は皇后の産んだ子ですし。保守的で人の噂に敏感だったといわれる彰子は前例のないことをして周りに色々言われるのが嫌だったのかもしれません。
後、彰子って道長と比べると恵まれた環境で育ったから、この件に関しては意見が違いが出てくるのも不思議ではないと思います。道長は敦康を皇太子にしたら伊周たちが巻き返すかもしれないと恐れていて、彰子は敦康の即位と同時に息子を皇太子にしてすぐに譲位させたら問題ないと楽観していたのかも。
道長は父親の兼家が兄と不仲で出世できなかったのも見てきているし、本人も(母親が同じ中では)三男で道隆が死ぬまではトップに立てる可能性はほとんどなかったのに掴んだ権力の座ですし。彰子って伊周の失脚時にはまだ10歳にもなっていない幼さでお屋敷の中でお姫様と傅かれているだけの状態だったでしょうし、世の中のことがわかってくる頃には最高権力者の娘という環境で育っているわけで。当時は皇太子になった頃と即位する頃で権力者が入れ替わってしまっていて状況が全然違っていることもあって、その代表が花山天皇の騙されて突然出家だったりするけど、その時にはまだ彰子って生まれていませんし。そりゃあ、道長と彰子でジェネレーションギャップがあるでしょう。